ウィキッドを観て “みんな違ってみんないい” をそっと思い出した日

社会人のモヤモヤ整理

吹き替え版・字幕版どちらも観て、すっかり心を奪われた作品「ウィキッド」。
演出や音楽、物語そのものが本当に素晴らしく、とても心を動かされました。

ちなみに、吹き替えと字幕の違いについて感じたことは、こちらの記事にもまとめています。
今さらウィキッド2回目を観てきた感想(※軽いネタバレを含みます)

それと同時に、「多様性」という言葉がたくさん聞こえてくる今だからこそ、
この作品にはたくさんの大切なことが詰まっているんじゃないか、そんなことを思いました。

もちろん、多様性というテーマはとてもデリケートですし、
私自身、きっとまだまだきちんと理解できているわけではありません。

でも、それでも…
この作品を通して色々と考えることができたので、
今回は少し勇気を出して、自分の気持ちを言葉に残してみようと思いました。

 

たくさんの “違い” があるから世界はおもしろい

ウィキッドを観たあと、心に残ったやさしい違和感

外見、能力、考え方が全く違うエルファバとグリンダ。
最初はぶつかり合っていた2人が、ある出来事をきっかけに「知る」ことで、
すべてを理解できなくても、少しずつ信頼を築いていく。

そんな2人の関係性は、とても丁寧で、あたたかくて、心に残りました。

でもその一方で…
始めはエルファバの見た目を気にせず、能力を評価して受け入れていたモリブル先生やオズ陛下。
彼らは、自分たちに従わないと分かるや否や、エルファバの緑の肌や特別な力、言葉を話す動物たちを異物として切り捨て ”違い” を “悪” として仕立てあげていきました。

なんだかこの構図、どこか現代の「多様性」とその扱われ方に似ている。
作品を観終わったあと、そんなことをふと思って、私の中で色々と考えさせられました。

 

“多様性” って “みんな違ってみんな良い” のことかもしれない

これは…人によっては違う意見もあるかもしれませんが、
私は、いま世の中で語られている「多様性」という言葉に、少しだけ違和感を持つことがあります。

もちろん、違う存在を知り、理解し合い、差別をなくしていこうという動き自体はとても素晴らしいことだと思っています。
ただ、”違うこと” を “すべて受け入れることが正解” というような空気があるように感じて、どこかちょっとだけ息苦しさを感じてしまうときもあるんです。

そんなとき、ウィキッドのエルファバとグリンダの関係が私にはとてもリアルに思えました。

彼女たちは最後までお互いを完全に理解し合えたわけではないし、全部を受け入れ合えたわけでもありません。
それでも、お互いの ”違い” をちゃんと知り、受け止めたうえで、信頼し合うことができていた。

“理解しきれないけど、知っている”
“受け入れきれないけど、尊重できる”

…それでも、繋がれる。
私はそういう形も “多様性” なんじゃないかなと思うんです。

人は育ってきた場所や価値観、見た目も性格もみんな違います。
知らないことは、たしかに怖い。
でも知らないことを ”知る” って、実はとても面白いことでもあると思うんです。

文化、言葉、見た目、生き方。
いろんな違いがあるからこそ、世界はこんなにも多彩で、こんなにもおもしろい。

だから私は「多様性」という言葉よりも、
『みんな違って、みんな良い』──この言葉がいちばん、しっくりきます。

 

ウィキッドが “違いは悪じゃない” ことをあらためて教えてくれた

エルファバとグリンダ、そしてモリブル先生とオズ陛下。
それぞれに立場があり、信じるものがあり、選んだ道も違います。

エルファバは、自分の信じる正義のために立ち向かうことを選びました。
グリンダは、エルファバに寄り添いたい気持ちを持ちながらも、自分の力では一緒に進むことができないと知っていた。だからこそ、別の場所にとどまることを選んだ。

どちらの選択も、どちらかが「正解」で、もう一方が「間違い」というわけではないと思います。
それぞれの立場、それぞれの想いがあって、選ぶ道が違っただけ。

そして…モリブル先生やオズ陛下がとった行動について、私自身の価値観では「それは良くないこと」と思います。
でも、彼らなりに「秩序を守ること」や「大きなものをまとめること」を優先したという意味では、その背景にある考え方そのものが完全に理解不能なものだとは思わないのです。

もちろん、その手段は肯定できません。
でも、彼らがその選択をしたのは “立場の違い” や “見えている景色の違い” によるものなのかもしれない。
そう思うと、ウィキッドは「違い=悪」ではないことを丁寧に描いていた作品だったのだなと、改めて感じました。

 

誰かと同じじゃなくても、ちゃんと繋がれる

それぞれの立場や見えている世界、価値観が違えば、
どうしても理解しきれないことがあるのは、きっと自然なことだと思います。

でも、たとえすべてを理解できなくても、
「こういう考え方もあるんだな」と、ただ知ろうとするだけで、
ほんの少し相手との距離が近づくことってあるんじゃないかな、と思うんです。

“相手を尊重する” というのは、自分と同じになることでも、完全に理解することでもなくて、
違う部分を「そうなんだね」と認めることから始まるんだと思います。

たったそれだけで、きっと世界は少しだけやさしくなる。
それが難しいこともあるけど、
ウィキッドを観て、私はそんな希望を感じました。

 

この気持ちを、これからもそっと大切にしていきたい

世界、なんてそんな大きな規模でなくとも、
友人や同僚、一番身近な家族だって理解できない部分があると思います。

でも、理解できないからといってすぐに否定してしまったら、相手との関係がぎくしゃくするだけでなく、自分の中に新しい価値観が芽生えるチャンスも逃してしまう。
それって、ちょっともったいないなって思うんです。

だから私は、「そんな考え方もあるんだ。私とは違うけど、でもそれもおもしろいね!」そんなふうに笑顔で話せる人でいたい。
そんな気持ちを、これからも忘れずに持ち続けたくて、今回は少しだけ勇気を出して、今の自分の気持ちを残してみました。

もし、読んでくれたあなたのなかにも、少しでも似た気持ちがあったならとても嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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